2022年 12月
「繋がり」を感じた今年に感謝
Nさん
2022年も新型コロナウィルスが収束しないまま師走を迎えています。
ちょうど巻頭文の機会を頂きましたので、今年を振り返ってみますと、ワタシ的には『いいこと満載』『幸せいっぱい』を期待した年でした。と言うのも、まだお正月気分だった1月6日、京都駅の新幹線ホームで、何と!黄色い車体のドクターイエローを初めて見たのです。だから『福 到来』を密かに確信。
と~ころが、予想外の事ばかりが続きました。積雪で瓦50枚が壊れて雨漏り、洗濯機・トイレの故障、納車の遅延、娘家族・私の母親のコロナ感染、等々。
けれど気分がふさいでいると何故か遠方から、しかも思いがけない人から連絡が入るのです。小・中学校時代の男子(千葉県在住)から「京都に遊びに行くから会おう!」との突然の連絡を受け、最終的に我が家で同窓会開催。永く疎遠の同級生とも人生を深く語り合うことが出来、開催後も手分けして連絡の輪を広げ、60年近く会っていない級友達が次々と繋がったのです。
福岡の50年来の友人(20年会っていない)からも突然電話あり。何度か話しているうちに2泊3日の楽しい奈良旅行が実現しました。
10年近くご無沙汰だった三重県の知人が、「病気が進行していて、来年の今頃は生きていないと思う。会いたい。」と、急にご夫婦で来られて話し込んだ日もありました。以後、時間を惜しむように行き来が再開しています。
コロナ感染から生還した母に、ぬいぐるみと認知症パフ風マフラーをプレゼント。面会はまだ無理ですが、幸い聴力は支障ないので、よく電話を掛けます。認知症ゆえの噛み合わない会話でも母はとても聴き上手です。昔のままの穏やかな明るい声が返って来ると、懐かしくて話が弾みます。
どうやら今年は、ドクターイエロ―に「繋がり」という福を運んで来てもらったようです。
2022年 11月
自戒を込めて…
Sさん
以前、某政党が「聴く力」をキャッチコピーにしたポスターを掲げていました。そそっかしい私は“傾聴普及キャンペーン”かと早とちりしました。よく見るとポスターには「小さな声を、聴く力」とあり、これは国民のどんな小さな声にも耳を傾けますよ、という政党姿勢をアピールするためのポスターだったようです。
9月に発足1年を迎えた現首相が掲げていたのが「聞く力」。就任当初から、一体誰の声を聞くのか、どんな声を聞くのか…と揶揄されたものですが、未だ国民の声を聞いているとは言い難い状況が続いているのは周知の通りです。
傾聴講座初日に学ぶ「聞く」と「聴く」の違い、すでに皆さんお気づきことですね。現首相は、まさに門がまえの家(党)の内に陣取り、家中(党内)に溢れている雑音騒音ばかりが耳に入っているのかもしれません。国民の声を真摯に聴こうとする耳はどこへいったのでしょう。
耳で聴く、目で聴く、心で聴く…。政治の世界だけではありません、日常生活のどんな小さな場面でも、この傾聴の姿勢は大切だとつくづく思うのです。
人は自分が興味がない話は、耳も目も心も勝手に閉じてしまうようです。放っておくと自分にとって都合のいい、ききたいことしか耳に入ってこなくなってしまう危険性があります。その意味では、聴くことは、自分本位であってはならないことです。できる限り相手に寄り添い、たとえ興味や関心がない話でも、おもしろがって聴くことができるようになりたい…と自戒を込めて願うのです。
2022年 10月
養成講座に参加して
Fさん
コロナウイルスの流行が第7波に入り、いまだに収束の見通しが立たない現状で、私たちの傾聴もほぼストップ状態になっている施設がほとんどです。
そのような中でも傾聴ボランティア養成講座や、PS傾聴ボランティア指導者養成講座が開催されました。私は毎回の参加は出来ませんでしたが、その機会に感じたことです。
受講者の方の受講動機はそれぞれですが、傾聴に関心を持って、時間とお金を払って受講に来てくださいました。熱心に意欲的に参加されておられました。
指導者の方は、講座開催にあたりカリキュラムの内容検討や資料の見直し、講義の進め方など何度も検討され、分かりやすく伝えられるようにと工夫されていました。その熱意と努力に感謝しています。実際の講義では自身の体験談も交えながら、やさしい言葉で伝える工夫をされ、分かりやすかったという感想が受講者から寄せられていました。
実習に行くことが出来ないので、講義の内容を踏まえたロールプレイが取り入れられました。受講者の中には講義が進むにつれて、傾聴の難しさを感じた方もおられました。ロールプレイを体験することで、聴いてもらったことで心が軽くなっていることに気づき、傾聴力に感動したという感想が寄せられました。また、自分自身への多くの気づきや、人間の尊厳という大きな課題に出会った方もおられました。
熱心に講義に参加し、自分自身の内面に向き合いながら受講されている姿勢に感銘を受けました。
☆ ☆ 沈黙について
『たましいの安らぎ』 著者 藤井理恵
沈黙は音のない「ことば」と言えるのかもしれません。ですから、自分が語
らなければと焦ることなく、沈黙も含めて「あなたのことを聴かせてください」
という気持ちで、静かに患者さんに聴く姿勢が大切です。言葉はなくても、
そばにとどまり、聴こうとする姿勢です。
語られる言葉に耳を傾けるとき、あるいは言葉を待ちつつ傍にあるとき、
患者さんとの信頼関係が生まれてくるのを感じています
2022年 9月
スイカ畑と私
Kさん
私の家では、道の駅に出荷するため、ささやかな野菜畑を作っています。
単価の安い野菜であれば、洗って、シールを張ったり、納品書を書いたりする手間の割には利益が少ないため、一個一個の単価の高いスイカを作る事にしていました。山間の地で野生動物の食害から守るため、トタンで囲いをし、その周りにネットを張り巡らしていたのですが、昨年は大型のイノシシに柵を体当たりされて壊され、全滅でした。一昨年はイノシシの害はなかったのですが、カラスからスイカを守るため、テグスとネットを張っていたのですが、下からネットを持ち上げてつつかれほとんど収穫できませんでした。その前の年はというと、7月の長雨で実が腐ってしまいました。その前の年はトタンの隙間にアナグマが細長い頭を突っ込み、すべて食われてしまいました。今年こそは何とか収穫してやろうと、トタンの内側にさらにステンレス製の柵で囲いをし、3重の防御をしました。そのため、スイカの売り上げ以上のコストがかかりました。策は針金で連結していたのですが、アナグマが鼻でトタンを持ち上げ、柵が地面よりわずかに浮いた部分から侵入し、大きくなりかけたスイカと、トウモロコシ、セロリーを食い荒らされてしまいました。まだスイカの蔓は生き残っていたので、気をとり直し、柵を地面との隙間が無いように補強し、侵入しやすいところに丸太を置いておきました。ところがそれから2週間ほどした深夜、物音気づき、見まわったところ、今度は柵と柵の継ぎ目の隙間に頭を突っ込み柵をねじまげて侵入されてしまいました。さすがに今度ばかりは頭にきて、大声で怒鳴ってしまいました。よく考えて見ると、何とか思い通りに事を運ぼうとする自我の思考経路にはまってしまっている自分に気づかされました。さらに全体を見回すと、スイカの収穫のだ
めになった分、ブラックベリーの豊作や梅の豊作、自然生えして茂ったプチトマトの豊作によって完全に埋め合わされていたことに気づきました。また6月の山椒の実が信じられない高値で売れたことに喜んだとたん、その利益はスピード違反の罰金にきえてしまいました。これらの事を考えると目先のことで、うまく行った、うまく行かなかったと一喜一憂する背後に、全体として収支がバランスよく埋め合わされ、何とか生活して行けるよう何かによって調整されていたことに気づかされました。何とか自分の力で生きていこうとする前にすでに何かにいかされていたということでしょうか?スイカ畑の教訓により、毎日一喜一憂することは無駄なエネルギーの浪費のように思えるようになってきています。
長々とした文になりましたが、どうか皆さんまだまだ残暑が続くようですので、体調管理とコロナの予防にご自愛下さい。
2022年 8月
コロナ禍の影響
Yさん
新型コロナウイルスは未だ変異を繰り返して私たちの日常を脅かしています。第6波を何とか切り抜けたかと思いきや、早くも第7波が押し寄せ、国はウイズコロナを目指すと言っていますが、どうなるのでしょうか・・・。
高齢者施設の多くでは傾聴活動がストップとなり、当時傾聴させてもらっていた方はどうしておられるか・・・。いつでも傾聴に入れるよう、月1回の例会には顔を出して講読やロールプレイなどを行い、傾聴訪問ができる日を辛抱強く待って、3年目。今は傾聴活動はできなくても会員同士の交流を図り、モチベーションの維持のための運営に苦心の日々、活動再開へのアプローチと傾聴の場の模索など、課題満載です。
我が家では、大阪の娘宅は今まさに夏休みを控えた孫が感染。娘、婿へとコロナに見舞われ、家族そろって自宅療養となりました。ラインのやりとりで安否を気づかい、宅配便で食材応援しか術がないもどかしい状況です。また近くに住む息子宅には、ワクチン接種とマスク対策で、孫たちのじじばば応援の日々です。
私個人では、昨年がん検診で乳がんが見つかり、浸潤性で鎖骨リンパ節転移、ステージⅢと診断され、手術、放射線治療を受けました。これから長く定期的なフォローとホルモン治療薬の服用となりました。何かと気ぜわしく、またコロナ禍もあり、延ばし延ばしとなって、3年間乳がん検診は受けてなかったのです。自己チェックをしているからと高をくくっていたのが悔やまれます。大きな誤算でした。コロナを恐れずに検診を受けておれば、早期がんで済んだかもしれない、よもやこんな形でコロナの影響を受けるなんて・・。まさか自分に・・・、自分だけは・・・と、根拠の
い過信でした。別段余命宣告を受けた訳ではないけれど、診断から手術、冬の寒い毎日を放射線治療に通いながら、自分の「いのち」の終焉を意識し、自明のことながら、有限であることに改めて認識しました。
新型コロナウイルスの世界的パンデミックとなっている中、感染当事者となることはもちろん、間接的にも大きく影響していることが、身に染みる昨今です。
それに抗いながら、毎日を大切にしていきたいものです。
2022年 7月
出会いを大切に
Iさん
コロナ禍で在宅期間が長くなり、いろいろな事を考えてしまいます。
その中で最近思うことは退職してから今まで、いろいろな出会いがあって年を
重ねてきたかなという事です。
退職後は何かボランティアをしたいと思っていたところ、最初に出会えたのが傾聴ボランティアでした。傾聴という言葉から学び始めたボランティアでしたが、その方が歩んでこられた人生の物語を寄り添い聴かせて頂いた事は、毎回心に響く大切な時間となりました。私にとって傾聴ボランティアに出会えた事は大切な出会いでした。コロナの影響で活動が2年以上休止となりクライアントさんとお会い出来ずにいます。いかがお過ごしになっておられるか気になり再会できる日を待ち望んでいる毎日です。
その他にもいろいろな方との出会いで、地域や病院でもボランティアをさせて頂いたことは大切な体験でしたし、趣味で新しく知り合えた人達との交流で私は元気をもらいました。
SKYの傾聴ボランティアに参加させて頂いたご縁でSKYの会と出会い、
その会の企画に参加することで、又新たな道が広がっています。
これからの人生も、出会いを大切に過ごして行きたいと思っています。
2022年 6月
17年間 ありがとう 猪岡紀久子さん
安井 潔さん
17年間ご支援いただいた四傾聴(四日市 )代表だった猪岡紀久子さん(80歳看護師 )とは、私が24年前神奈川県茅ケ崎市で東海大学(神奈川県伊勢原市、哲学、村田久行助教授 )で傾聴ボランティア養成講座を受けて1999年茅ケ崎市で傾聴活動を始めて2004年、京都傾聴塾代表の時、傾聴ボランティア養成講座を始めて4年目、四日市より受講した4名のうちの1名が猪岡紀久子さんでした。6日間通い続けられました。2006年には四傾聴代表となり今度は傾聴指導者養成講座を6日間受けられました。四日市社協主催で、安井の傾聴講演会を2年立て続けに開催していただき会員を募りました。17年間で13回の傾聴講座を開き、今28名が四傾聴の活動の中心になっています。17年前の傾聴ボランティア養成講座は哲学者村田先生のA4で1枚のカリキュラムでした。受容と共感となぜなにを何のために聴くのかが書いてあるのみでした。私は2005年に村田先生と考え方の違いから離れて新しいカリキュラムを考えました。それが鷲田清一先生( 哲学、京大阪大市立芸大 )の聴くことの力でした。私は2006年京都PANA-ALCを設立し代表になりました。それから5年間は鷲田先生の講演会を追っかけ、徳島から神戸大阪京都横浜と講演会に参加し続けました、すべて妻と一緒でした。こうして安井式の傾聴養成講座カリキュラムを作り上げました。猪岡さんは四傾聴代表として私を支えてくれました。私も応えて17年間四日市へ講義に通い続けました.年間3回17年間で51回プラス指導者養成講座を2年前に開催し3日間を3回講義討論し続けました。四日市に9名の指導者が誕生しました。その間17年間
には猪岡さんの片腕だった人も退会しました。養成講座で応募者0名の時泣く泣く養成講座を開催中止しました。猪岡さんは四日市社協を支えて講演会を年間7-8回も重ねてやっと4名が傾聴養成講座を受けてくれました。その間私は鷲田清一先生の本20冊を読み続けて、講演会に夫婦で参加し続けて感情の言語化と待つを加えてカリキュラムを書き直していました。2005年にはJR福知山線脱線事故107名の死を機会に当時兵庫県の英知大学心理学の先生だった高木慶子先生と出会いグリーフケアのとりこになり15年間教えていただきました。先生はその後上智大学大学院心理学の中でグリーフケア研究所長となり教えを請い続けました。先生はアルフオンスデーケン神父のあとを引きうけ、生と死を考える会全国会会長になりました。私は2000年から大阪生と死を考える会の傾聴顧問として活動続けていました。猪岡さんはご主人を55歳で亡くされ3人のお子さんを育て傾聴活動を17年間代表として続けられました。この度40年間住み慣れた四日市から娘さんのいる愛知県に引っ越しされることになり、代表を9名の指導者から選んで金谷雅子さんに引き継ぎました。今度ゆかれる街でもホスピスの傾聴や心の病の人々の傾聴活動が待っているようです。猪岡紀久子さん17年間ありがとうございました。新天地でも傾聴活動を続けていかれると伺いました。大変うれしく思います。今後も私は四傾聴を支えてまいります。
2022年 5月
「故郷にて」
MKさん
三月末から故郷に居ます。
四月初旬、まだ1mの雪があります。
春の日射しと共にどんどん雪融けをしています。
融けた土の下から蕗のとうやつくし、カタクリ、水仙が待ってましたとばかり、ぐんぐんと成長して花を咲かせます。雪国のこれからは、地元の方たちが「こんな良い所は無い!という季節が巡って来ます。
そんな季節の中を96才(母)と95才(父)の両親と暮らしてみようというわけです。
今冬、初めて雪を避けて、他所(主に妹の所と私の所)で5ヶ月程暮らしているうちに、母が軽い認知症状出て来てしまいました。いくら娘達の所とはいえ両親が気を使いながらの生活を目の当たりにし、やはりこの二人の生活はあの雪深い自分の家なんだなと実感しました。
覚悟して(大げさ?)いざ故郷に両親と帰ってみると、まず、母の表情が良い方に変わりました。近所の方達も両親の帰宅を喜んで迎えてくださり、改めて故郷の良さを実感し、年月を経ての視点を変えた関わりを楽しんでいます。両親との暮らしは、私はなるべくズボラ介護にし、両親とも少し距離をとり、今のところちょっと手のかかる同居人くらいに思って接しています。
どんな先行きが待っているのかですが、その時々に周りの方にHelp me! と言いながらやって行こうと思っています。 会報誌が出る頃は、山菜採りを楽しんでいます。 ー 休会中の状況報告でした。ー
2022年 4月
『傾聴』? を『盗聴』
MIさん
「お元気か?‥‥ わたしは元気やで」
夕方になると、繰り返されるチチとオバさんとの電話。チチは私の義父、オバさんは義母の妹、3人は幼馴染みで、各々家庭を持っても近くで暮らしてきた。長らく一人暮らしのオバさんは、仲良し姉妹だった義母が亡くなって、気落ちしたのか持病の悪化とともに少し不安定に。
「…あんたなあ、それはしょう(が)ないやろう。」
(えつ、「しょうない」とか、ソラきついと違う?)
キッチンで硝子戸越しに聞こえてくる話に心の中で突っ込みを入れる私。
それからしばらくしてオバさんは施設に入居した。
オバさんは、このところ手足の自由が思ようにいかず、心もおぼつかない。
そんなオバさんをなんとか励まそうとするチチ。
「こう言っちゃなんだけど、あんたは少しボケてんのやから、云々…。」
(ええ…つ!!そんなにはっきり言っちゃあ…。)
「…施設なり入ったほうが、あんたも楽やし、子供たちも安心やから…。」
(きっつう…オバさんだって、それはわかっているよお…。)
「…わかったあ? ほな、気いつけて、またな、おやすみ〜。」
(それはあまりに一方的じゃあ?。…オバさん大丈夫かなあ、ひとりで…。)
今後は、慣れない環境が不安がたまらない。施設での生活の不満をぶちまける。
「あんた、ええとこ入れてもろたんやから、辛抱せなあかんで。」
(もう少し、優しく言えんのかなあ…。オバさんの辛い気持ち、受け止めてえ。)
やがて、お友達もできたのかオバさんは落ち着いてきた。
やがて、お友達もできたのかオバさんは落ち着いてきた。
最近は電話の回数も減り、もっぱら互いの安否確認?になってきたようだ。
これは「傾聴」でもなんでもない。ごく普通の会話。それも一方的なチチの
暴言? それでもお互い懲りずに話している。私にはハラハラだったけれど、
「安心して話ができる、聴いてもらえる。」…長年の付き合いあればこそだ。
ならば私が傾聴に行く時、初対面でも話してもらうためには、長年の付き合い
に優ル?「共感の技術」が必要なのか…と、あらためて思う。
2022年 2月
道 程
MKさん
僕の前に道はない
僕の後ろに道はできる
あ、自然よ 父よ
僕を一人立ちさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守ることをせよ
常に父の気迫を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため
詩人 高村光太郎(1883〜1956)
年が明けて1月13日の朝刊にギネスが認定した世界最高齢者「田中カ子」さん、明治36年1月13日生まれ、118才。福岡県福岡市在住が紹介されていた。その時「きんは100才」「ぎんも100才」と可愛い双子の姉妹が放映されていた事を思い出した。まだ“100才まで生きる”という事がまれな時代だった。あれから20年、この間急速に高齢化は進み100才人口は増加した。
老いとは誰もが抗えない衰えの過程であり、老いは誰も避けられない。老いは個人が克服するものでもない。老いに対する対応は社会の問題が大きいと同時に文明の問題でもある。個人も社会も経験したことのない未知の時代へ突入しているのだから。
これは詩人高村光太郎の詩「道程」の二行、“僕の前に道はない 僕の後に道はできる” に現わされていることだ。新しい社会を築くには道なき道を拓くしかない。知恵を集め、手探りでも行動を起こさねば何も変わらない。個人も社会も大きな努力が
必要だ。怖れていては何も結果は出ない。“ 僕の前に道はない”
のだから、それでも何とかしなければ!! 何が最善なのか?どんな方法?
艱難辛苦を克服してこそ一歩前進、動きはじめられるのではないだろうか。
私達の後ろに出来る道に「傾聴ボランティア活動」を書き加えられるように精進しましょう。
2022年 1月
「笑顔で生きる 認知症とともに」を読んで
AMさん
長かった緊急事態宣言が解除され、久しぶりに訪れた地域の図書館。アルツハイマー月間に因み、正面に「認知症に関する本」がズラリ。中でも私の目を惹きつけたのは、「笑顔で生きる 認知症とともに」丹野智文著でした。
傾聴活動をしている中で、認知症のクライアントさんと会う事は珍しくありませんが、丹野さんの様に39歳で若年生アルツハイマー認知症と診断された人は、少し特別だと思います。(2014年4月に診断される)
「嘘だろ?!」
「何で39歳の私が認知症なんだ!」
当時の彼の叫びである。
高齢者の私でも、認知症にはなりたくない。「何もわからなくなる」「徘徊して、
寝たきりになる」「アルツハイマー=終わり」というイメージが強かったのです。(今は違いますが)悩んだ末に(一言でかたづけて申し訳ないのですが)丹野さんが導き出した生き方は、「認知症になっても周りの環境さえ良ければ、笑顔で楽しく過ごせることを知りました。薬も必要ですが、環境が一番大切だと感じています。つまり、失敗しても怒られない環境です」と言っておられます。
私も同感です。現在97歳になる姑を見ていてそう思います。(別居ですが)姑は
歳後半でアルツハイマー型認知症と診断されました。徘徊、排泄の失敗と色々な事はありますが、今は落ち着き若い人に負けないくらい食欲もあり、誤嚥もなく元気に過ごしています。何故、どうしてこんなに元気で穏やかに過ごせるのか、私には不思議でした。思い当たることは一つだけ。今の環境が姑にとって一番良いという事です。「その人に合った環境を整えてあげる」このことはとても大事ですが、難しくも あります。
私達傾聴者が接するクライアントさんが、良い環境で過ごされることを願っています。一日も早く活動が再開され、クライアントさんに会えますように!