2020年度 今月の寄稿文

2020年12月

 

 「電話で思うこと」  Tさん

 

 午後6時頃になると電話のベルが鳴り、出るとすぐに「M代、私だけど。○○ちゃん(妹)の電話番号は何番だったあ? ○○ちゃんの番号は○○だよね」と番号を読み上げ「これで合っているよねえあのね、この番号は使われていませんとアナウンスしているけど。大丈夫だよねえ」と矢継ぎ早に話し、私の方から連絡してと言う。それが終わると「誰も話す相手がいなくて淋しいよ。家に来ておくれよ」と2〜3回同じ言葉が続く。「はい、はい」と私は答えるだけ。こんな時ほど、受話器が重く感じることはない。

 母が私に電話をしてくる時は、妹と上手に話が出来なかった時、忙しいので電話を切られた時、納得が出来なかった時などが多い。母には母の思いがあり、娘は親の言う事をきくと思い込んでいる様子である。

 妹は、毎日毎日夕飯の支度で忙しい時に電話がかかるものだからイライラしている。私に対しても、忙しい時に電話がかかるから大変と言って、怒ることもある。娘の気持ちを察する事が出来ない母であるから、私は仕方ないなあと思うのだが、どうしたら良いのかと考えてしまう。妹とは母のことで話し合う事が多くなったが、三人ともどうすることも出来ないでいる。

 今、読んでいる本「今ここ」神経系エクササイズ(浅井咲子著)という名の本である。その中に書かれていたことは、自分に甘く優しくでき、いたわり慰める言葉。自分の中にカンガルーの親子が一緒にいて、親カンガルーが子供カンガルーをすぐにいたわり慰めてくれるイメージです。

  大丈夫

 もう安心していいよ

 お休みしていいんだよ

きっとうまくいくよ

 人のためにならなくてもいいんだよ

 別にやらなくてもいいんだよ

 自分勝手になってもいいんだよ

 自分を甘やかすだけ甘やかしてあげていいんだよ

 自分の感情なんていくら変わってもいいんだよ

あいまいな感情があっても、もちろんいいんだよ

この本を読んで、自分のありのままの姿で良いと考え、誰にも何の遠慮することなく「まあ、いいか」と思い、母に対しては、親カンガルーと子カンガルーが反対になった形で、母からの電話に付き合う事にした、今日この頃の私です。

そして、電話での傾聴は大変難しいと思い、日々努力が必要と感じています。

 

 

 

2020年11月

 

 「語らない傾聴」  Yさん

 

2月初旬「新型コロナウイルス感染」が飛び込んできた。定例の施設訪問を予定通り行ってよいのか、どうしたものかと思案した。マスク持参でと指示があり、とりあえず訪問した。テレビからは、横浜港の豪華客船に、防護服を身に着けた関係者が乗り込んでいる姿が映し出されていた。「こんな非常事態に訪問とは」と、クライアントから不安げに漏れた言葉。その言葉が、槍になって胸に突き刺さった。この空気をどう処理すればよいか分からなかった。気持ちが後ずさりしていくのを感じた。突然迫ってきたコロナの恐怖に動転した。傾聴の基本である「聴く」ことができない自分に動揺した。今なお活動先はどこも再開されてない。

日常が大きく変わり、マスクは必須。マスクにより、相手の豊かな表情や醸し出す雰囲気が消され、受ける印象も大きく変わる。何かうわべだけのやりとりで終るように思う。また、何事を行うにも距離を取り、手短に処理することが求められる。非言語的コミュニケーションは絶たれてしまう。こんな時こそ、人と触れ合い会話ができたら、どんなにか心に潤いができることかと思う。しかし、現状は、長い会話は難しい。感染する、しないが命に関わってくる。自分一人で背負えることではない。

仕事の関係で高齢者の方の日常と接することが多々ある。コロナ禍で、日々の生活は一変し、孤独、恐れ、痛み、生きることの苦しみは変わらない。奥様の難病発症で日々の生活に追われている夫。コロナでいまだ学校が始まらず、海に出かけて不慮の事故にあった孫を思う祖母。妻が他界し、喪失感を払拭し頑張りたい夫。余命幾何もなしと話していたが、再起し同好会に再参加した利用者さん等々。

何ができるのだろう。寄り添うってどういうことだろう。顔を合わせて、「ようこそ」のあいさつで一人ではないことは伝わる。声掛けは時として大きな原動力になり、素知らぬ人もいつしか話しかけてくれる。こんな何でもないことを続けることも、傾聴の精神であることを深く心に刻んでいる。語らずとも、今を、この時を、生きていることを、確かめ合うだけでよいのだと思う。眼力を発揮し、少しだけ肩にふれ、手の温かさを感じる語らない傾聴を、もう一度ここから始めてみよう。

 

 

2020年10月

 

「我が傾聴~ベストシーン~」 Kさん

 

 傾聴養成講座終了⇨(指導者コース修了)⇨傾聴ボランティア各施設訪問活動(継続中)」の8年目を迎えた昨今である。“右・左”も全く解らない「傾聴の世界」には、最初はかなりの戸惑いを拭えなかったが、教えられるままに関心を持って学ぶことが出来た。その中で「感情」とは、人間誰しもが保有していて内容、形が変わろうとも命がある限り、人が持ち続けるものである。この誰もが持っている「感情」を、傾聴相手から受容して寄り添うことに傾聴冥利を得る事が出来ている。昨年ある施設で傾聴したAさんの感情に対して感動すら得たことを一部紹介します。(昨年の本会での「会話記録発表」での、一部抜粋) 

※老人施設利用者:Aさん。(女性)、95歳、17回傾聴。車椅子、お耳は少し遠いが近づいての傾聴は差支えない。言葉は、明確に発せられる。毎回時、訪問者への数回の同じ質問(出身地、家族等々)の繰り返しに対して、その都度Aさん自身の出身地を町名まで言われる。このやりとりが一度の傾聴で2〜3回必ず正確に繰り返される。1回の傾聴中に、Aさん自ら【唱歌】を実に正確に口ずさまれる。又, Aさん自らリクエストをBに求められ、無表情に歌われる。この規則正しいパターンが、実に17回の傾聴でほぼ毎回継続した。どちらかと言うと無表情で淡々の繰り返しであった。5回目頃から訪問時と終了時に「やあ、久しぶり!」「じゃあ、又ね〜」Bの両手をAの口元近くに持って行き、口づけのような,おどけた?真似を見せられる事もしばしばあった。それ以外の新たな事は、殆ど自ら口にされず、淡々無表情であった。※18回目のAさんとの大ホールの片隅のテーブルで傾聴中、“おやつ”の時間に出会い職員さんからAさんのテーブルの上にも小さいお皿にお饅頭2つ乗った“おやつ”が配られた。Aさんから、「あんた(B)は、ないんかね(おやつ)?」⇨「Bは、ここでは、頂けない事になっています〜」と簡単な事情を添える。⇨Aさん、自分の皿の上の一つの饅頭をフォークで半分に切り取り、Bに無言で差し出す仕草を取られる。⇨BAさん、お一人でゆっくり召し上がって下さいね」と、丁重にお皿を戻す。Aさんは、無言で何事も無かったように皿の“おやつ”を全部食べられた。今迄に、他の傾聴訪問でも数回この様な“おやつ”等々を勧められた事は度々あったが、その都度事情を添えて断り「どうしてや?なんでや?」のやりとりでやっと納得してもらう事が通常であった。今回Aさんの、Bに対する「気遣い、おもてなし」の無言の感情を得る事ができ嬉しかった。施設から帰宅途中のバスの中でも、Aさんの感情の温もりは消えなかった。B⇨19回目の訪問時職員さんから、「Aさん、体調悪く家族の方と個室にご一緒です」とBを個室に通して頂いた。娘さん(以前の傾聴訪問で、2度程挨拶のみの面識あり)と孫娘さん(?)が、ベッド上のAさんを覗き込まれていた。簡単な挨拶を済ませてBAさんを覗き込む⇨娘さんが「Bさんが来てくださったよ〜又元気になって話を聴いてもらおうね。」⇨目をつむっておられたAさんが、大きく目を開かれてBを見つめてくださる。(アイコンダクト)頷かれている様子に思えたが?言葉なし。⇨孫さんが「(Aさん)反応があった」と大きな声を出される。当日Aさんから受けた感情は、両者とも無言であったが、胸にこみ上げる感動を得た。Bは退出した。翌月Aさんを傾聴訪問すると、職員さんから「Aさんは、お亡くなりになりました。」この一言だけで、当方も詳しく尋ねる事なく施設を去った。帰宅途中で、Aさんから18、19回目の傾聴で受けたAさんの感情の『ベストシーン』が明確に蘇ってきた。

 傾聴を始める前までは、世間一般に“ポーカフェース”“無表情(無愛想)”という人には“感情”が極小である事と〜認識していた。しかし傾聴を学び体験継続する事により「人誰しも、命ある限り“感情”を持ち続けるもの」との認識を新たに得た。現在(9月)は、世間がコロナ感染渦のためほとんどの施設で出入りが出来ず、傾聴が出来ていないが、1日も早く傾聴訪問が再開して、傾聴による各々の『ベストシーン(場面)』に聴き廻れるのを心待ちにしている。

 

 

2020年9月

 

「心ひかれた新聞記事」 Wさん

                       

 とある新聞記事の中に心ひかれる記事が載っていました。

大きな怪我をされ再起不能と言われていた方が、奇跡的に回復され、これからの人生は、こんな風に生きていこうと思われた言葉です。

 

 口は人をはげます言葉や感謝の言葉を使う為に使おう。

 耳は人の言葉を最後まで聴いてあげる為に使おう。

 目は人の良い所を見る為に使おう。

 手足は人を助ける為に使おう。

 心は人の痛みがわかる為に使おう。

 

今仕事で外出や、飲食・高齢者の方々と接する事も多く、又私の住んでいる地域でも商業施設・中学校・病院等でコロナ患者が出て、私自身の外出は極力控えています。PANA-ALCの役員の皆様が月例会運営についていろいろ考え配慮下さり、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

 

 傾聴で学ばせていただいた事、又新聞記事の様に五感を生かして出会いの方々に接して行きたい!! それが今できる傾聴だと思っています。

 

 

2020年8月

 

「私の人生の師 -故 芳中實様-」  安井 潔

        

私は81歳です。大手企業のメーカーのセールスマンを36年間勤めました。42歳の時大阪の電極事業部から関東の辻堂にある蓄電池事業部(300億円/  )の新車バッテリー直販課長としてカバン一つで赴任しました。40年前のPのバッテリーシェアーは業界5社中4位でした。1位以下G.Y.k.P.Fとなりシェアーは14%でした。当時の電池会社の専務取締役事業部長芳中實様より密命を受けていました6年以内にPをトップシェアーにせよとのことでした。

 当時の自動車バッテリーは鉛電池100%でした、主材料は鉛。この価格は三菱商事が毎日建値を発表していました。シェアー4位のわが社はトップより1万円/トン高く買っていましたのは購入量がトップの半分でしたから。品質は99.99%の鉛でした。世界一の自動車王国アメリカにGMという自動車世界一の会社がありシカゴとデトロイトを訪問しデルコレミィ社にたどり着きました。デルコは廃バッテリーを回収し砕き鉛99.9%を取り出して使っていました。ただし価格は折り合いませんでした。世界一の廃バッテリーの回収鉛再生産の会社が台湾の高雄にあり台湾へ飛びました。3日間折衝し2万円安い鉛を手に入れましたが技術部長は採用に頑として反対でした。事業部長、技術部長、工場長、浜名湖工場との折衝が日夜続きました。大阪の本社の役員車は28台ありすべて新鉛のバッテリーに切り替えて走行テストを1年間しました。40年前の鉛電池の製造はG社の鋳造式がすべてでした。このままではいつまでも追いつけないので、世界を探しましたらドイツにエキスパンドという新製法があるが不良で使えない。この機械で1年間不良を出し続けて改良を重ねて、13ラインの製造のうち1ラインを試作ラインとして、200名の浜名湖工場社員の車に搭載して走らせる実験を重ねました。1年後日産へ通い続けてやっとセドリックとブルーバードのシェアー50%をいただきました。6年後自動車の新車バッテリーのシェアーはトップとなりシェアーは28%を超えていました。G社とK社に独占されていた日産の壁がここから崩れてゆきました。私はその後グループ会社の総括部長から電子部品会社( 4000億円/年 )の営業担当の常務になって世界21か国を相手に販売の一線に立ち続けていました。

57歳で糖尿病になりヘモグロビンA1c11.4になり、59歳で早期退職し、地位と収入を一挙に失い3週間入院となりました。東海大の村田久行先生(哲学)伊勢原の健康科学部でお会いして傾聴ボランティア養成講座を大学内で受けました。21年前です、1年後には指導者養成講座も合格して京都で20年前傾聴ボランティア養成講座を妻と二人で始めました。59歳でした。

傾聴ボランティア活動開始して5年後64歳の時にノートルダム女子大大学院の哲学村田久行先生にスピリチュアルペインとケア論対人援助論など学びました。

スピリチュアルとは人間の霊や魂の苦しみです。人間の心が安定しているのは3つの存在に支えられているからです。1つは時間存在、2つは関係存在、3つは自律存在です。私のサラリーマン生活36年間の中の3つの存在の苦しみに分けて分析します。

1.     時間存在の苦しみ

33歳で営業課長の時の上司から「こんなことできないんやったら会社を辞めよ、辞表かけ、会社へ来るな」丸坊主になりました。59歳で病気早期退職地位と収入すべてを失いました

2.関係存在の苦しみ

   66歳の時尊敬していた芳中實元社長( 4000億円/年 )73歳がんで亡くしました。42歳から15年間ずっと一緒にご指導いただいた尊敬する上司、製造の神様。6か月間立ち上がれなかいくらい苦しみました

  75歳の時ホスピスのドクターで生と死を考える会大阪の会長だった谷壮吉先生(83)、私は15年間薫陶を大阪で受けていました。肺がんで亡くなりました。ホスピスを根本から教えていただいた先生。苦しみました。

3.自律存在の苦しみ

   55歳の時目に血液が入り真っ赤になりました。右目失明かと。56歳の時尿に血が混じりました。何日も続きました。57歳で糖尿病78歳から3年間4回の心臓手術。80歳で大腸がん手術。

今、81年間味わったことのない、世界中を巻き込んだコロナ感染対策に傾聴ボランティアも110( 3か所で )が一丸となって取り組んでいます。ウイルスの根絶はないでしょう。しかし上手に共存してゆくことはできることと存じます。すでに12年前に亡くなった元、芳中實社長の教えを思い出し、胸に抱いて対策しています。逆境もまた真也。これまたチャンスととらえて傾聴に生かしてゆく。今老人ホームの高齢者が閉鎖され、肉親とも会えなくなり、苦しんでいることを片時も忘れてはなりません。

多くの人に助けられて教えられて81歳の今があることを忘れてはならないと自分に言い聴かせています。  

 

 

2020年3月

 

 「忘れ得ぬ方々」  Yさん

 

 私の傾聴歴は某病院における2013年までの5年間で、それ以降は私の住む地域での福祉活動に参加している。現在の当会との関わりといえば、会報会員といったところかもしれないが、毎月の会報を通じて傾聴や福祉分野の諸情報に接することで、地域活動をする上で大きな精神的援助をいただいている。

  ・・・5年間、傾聴させていただいた3人の方々の断片から・・・

 Aさん:背中だけしか見せてくれなかったAさん。でも、テーブルにあった写真がきっかけだった。彼女の心底悲痛な言葉に接し、そのような人生があるのだと。私はその直後、耳鳴りが生じ医者通いをした。傾聴者として落第と思った時でもある。たった6回だったが、最後に手を握った時、グーッと握り返してくれたことが忘れられない。

 Kさん:長い病院生活だった。寝たきりのKさんのベッド脇しか知らなかった私が、その日、病室に入ってまず目にしたのは、鉤針編みをするKさんだった。

 鮮烈な瞬間だった。彼女に残された体の機能はわずかしかなく、右手の親指と人差し指がかろうじて動く程度。最初の網目を娘に作ってもらい、これもやっと動く左手で支え、一目一目編み続け巾着袋に仕上げるのだ。人は最後まで自己表現の場が大切なのだと、そんなメッセージを送ってくれたのだと思った。

 Sさん:まだ冷房は稼働していない蒸し暑い日だった。扇風機もなく、うちわも扇子もない。ベッドに臥しているSさんが「暑いね」とポツリと言われた。私は手に持っていた小さな紙をたたんで、ささやかな風を彼女の頬に送った。その時の穏やかな顔付きが今も目の前に浮かぶ。Sさんの父親は明治期に創設された農商務省派遣の海外留学生の一人で、「家具」を勉強しにアメリカに渡ったと言う。19の時に父を亡くしたSさんはもっと、父の話を聞いておきたかった・・と。思いがけず、ベッド脇で私は日本の近代を勉強することになった。

 時を経て記憶の中に存在し続けている傾聴空間に心から感謝しております。

 

 

 

2020年2月

 

 「二つのボランティア活動のつながり」 Nさん

 

 

 ご無沙汰を重ねております。京都PANA-ALCの月例会に出席もせず、傾聴を学ぶことも怠っている状況で、会報誌に登場させて頂くのは身の縮む思いです。

 今、生活の中で大きなウエイトを占めているのが、脳活性化ゲーム「みんなの認知症予防ゲーム」普及・啓発ボランティア活動です。認知症への理解を伝えると共に、共生社会への実現を市井の人の立場から頑張っている法人活動で、なぜか多忙です。

 ‶怒涛如く”とはまさに昨年の私のこと。一年中、どこかの町の公民館や役所の研修室、各種の施設等に出かけていました。自主開催サロンも8年目、127回。

 最近、活動しながら特に感じていることがあります。「傾聴」の基本的な姿勢とこの脳活性化ゲームの神髄とが重なり合い、共鳴していることです。

 ゲームをリードする役目のリーダーさんの中で、傾聴ボランティアとしても活動されている方を何人か存じ上げています。千葉県、岐阜県で活動されている経験豊富なリーダーさん達、師事した先や所属団体は違いますが、皆さん異口同音におっしゃるのは、「傾聴ボランティアの時に大事にしている『尊厳』『受容』『共感』『待つこと』など、本当にゲームと通じるものがあるのよね」の言葉です。私もしかり。「傾聴」で学んだことは、脳活性化ゲームの有用性をより確実に高めていると実感しています。お会いする度、その話題になり何時も熱く語ってしまうのです。

 昨年末(冬至の日)、法人内の勉強会の折、「ボランティア活動~新しい生き方を目指して~」という題で、外部講師の講演を企画しました。その中で講師の方が、「ボランティア活動で大切なことは、『自主性』そして『主体性』です」と話されました。 

 今年はその言葉の意味を常に問い直しながら、傾聴ボランティア活動とゲームの普及・啓発活動の両輪に乗り、変わらず多忙な日々を走るのだろうと思っています。

 皆様のご多幸とご健康、そしてますますのご活躍をお祈り申し上げます。

 

 

 

2020年1月

 

  「今を生きる達人たち」  Kさん

 

 もし、私たちが今の瞬間を思いきり楽しむことができたら、人生はどれほど豊かなものになるだろうかと、思うことがある。とかく私も含めて私たちは、過去にとらわれて、今不幸なのは過去のせいである、もしあのことがなかったなら今は~であるにちがいないと、不満を言い表すことがある。このようになかなか過去を手放せないでいる。そればかりか実際に将来は何も起こっていないのに、何かが起こるのではないかと不安にとらわれることがある。そしていつかは訪れる老化や死の影におびえながら、将来の安全を確保しようとやっきになっている。もしこれらの考えを手放すことができれば、人生はどれほど充実したものになるだろうかと思うことがある。

 我が家には過去、未来にとらわれないで、今の瞬間を思いきり楽しむ達人たちがいる。もっともこれは人間のことではない、我が家の3匹のトイプードルのことである。彼らは過去に辛いことがあっても、すぐにそれを忘れ、今を思いきり楽しめるのだ。    また私たちの過去の至らなかったことを赦し、何事もなかったかのように信頼して身を寄せてくるのだ。過去の態度いかんにかかわらず、無条件で受け入れてくれるのだ。そしてあらん限りの喜びを全身で表しながら、帰宅すると出迎えてくれる。彼らは人間のように不平を言ったり、不満を述べたりしない。つらいときには、無言で私を見つめ、そばに寄り添ってくれる。これこそすばらしい傾聴ボランティアではないだろうか?

 頭の中の過去や未来を思う声にとらわれて、今を見逃してしまうのが私たち人間だ。鷲が浮き上がらせてくれる風の力に身をゆだねて大空を滑空するように、私たちを生かす命の力を信頼して、今を思いきり生きることができれば人生の風景もまた違ったものになることだろう。少しでも彼らに見習いたいものだ。